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キルチネル前大統領の死

◆10月27日の朝7時過ぎ、出張先のブエノスアイレスのホテルからタクシーで国際空港に向かっていました。カサ・ロサーダと呼ばれる大統領官邸の横を通り過ぎましたが、官邸前の5月広場は閑散としていて、走っている車は乗っているタクシー程度。そんな中、突然に黒い犬がタクシーに飛び込んできて、危うく轢かれそうになっていました。朝から不吉なことが起きるものだ心の中で呟き、いつもの習慣のように運転方向の右手前に見えるメトロポリタン大聖堂に向かって十字架を切りました。その数時間後、この一帯は全く様相が変わりました。

◆同日の9時過ぎに、その瞬間までアルゼンチンで最も権力を有していたと思われる人物が同国南部の観光地カラファテの地で亡くなりました。ネストル・キルチネル。アルゼンチン前大統領です。彼の訃報が流れるとともに、その日は10年に一度の国勢調査の日で祝日になっていたこともありましたが、5月広場に誰ともなく人々が集まって来ました。広場周辺はアルゼンチンの国旗を背中にまとったり、キルチネル前大統領の称賛や別れのメッセージが書かれた手書きのボードを持った市民の姿。その光景が全国のテレビに延々流れることで、まさに前日までは「反キルチネル」機運も流れてた国内の空気は、一転彼を聖人まで昇華させているかのようでした(ご推察のとおり、ここに集まった人々の素性及び動機は、テレビが祀り上げるほど純粋なものではないとの話もあります)。

◆さて、アルゼンチン南部の州知事に過ぎなかったキルチネル氏が03年に大統領に就任してから、アルゼンチンはキルチネル時代が始まりました。01年末の経済危機によって財政が破たんし、社会不安が高まり、02年にはマイナス10%を記録するなど、アルゼンチンはどん底まで落ちたと言われました。キルチネル前大統領は、同国の権威の立て直しのため、何よりも国民生活の向上を優先させ、そのツケは時に海外の投資家や企業に負担させてまでも遂行させてきました。キルチネル時代を通じて、同国が得意とする食糧などの一次産品が高騰し、輸出先の経済が好調であることで、この国はかつてない継続的な好況を迎えることになりました。また、キルチネル時代は、07年に妻が大統領選に勝利したことで引き続き、また来年の大統領選ではキルチネル氏が有力候補であることが大方の見方でした。

◆特に今年に入ってからは、11年10月の大統領選のキルチネル派の勝利が現政権最大の焦点になったかのような政策が続いてきました。年初あたりには、ポピュリズム的なバラマキ政策ではきっと途中で財政が破たんすると思われていましたが、ブラジルや中国が好況であることによって輸出が好調で、外貨準備高も最近では500億ドルを超えるなど、最近では年初の心配材料はなくなったかのような状況になってきました。ただし、現政権では外貨が逃避しないような施策をパッチワークのように相次いで作っており、これらが企業活動の足枷になっていることも事実です。

◆更にキルチネル時代の特徴は、巨大な集票マシーンと目される労働者や低所得者層を抱える労働組合との蜜月であり、経済及び社会政策では労働者層に偏重するような動きが続いており、これも国内外の企業にとってはアルゼンチンに対するマイナスイメージを払拭できない理由の一つになっています。毎年平均して25%程度の給料アップはアルゼンチンのお家芸になっていたところ、今年に入って、このインフレの加速が家電や自動車といった耐久消費財の消費の喚起を招くという皮肉な結果をもたらせています。ただし、これも需要の先食いではないかということで、いつ息切れするかが関心事項にもなっています。

◆以上のようなアルゼンチンの風景をキルチネル前大統領は03年から描いてきたことになります。この21世紀最初の10年間のアルゼンチン政界を代表する人物が亡くなったことで、間違いなく、アルゼンチンは次のフェーズに移らざるを得なくなりました。恐らく次期大統領選までは過渡期ではないかとみています。これから大統領選までの1年間の間に相当な政治闘争があると思われます。

◆一番最初に注目されるのは、フェルナンデス大統領とその取り巻きによって構成されるスモール・サークルがどのような動きをするかにあります。これが果たして次の大統領選に向けて一致結束できるのか、それともこの小さな利権配分共同体はキルチネル前大統領という強力な箍(たが)があったから保つことができたのか。これは実は様々な憶測が既に出ていますが、ある程度見えてくるには数週間かかるのではないでしょうか。

◆次は、フェルナンデス大統領がその利益配分共同体を維持させるために、自らがどのように動くかがポイントになります。つまり、最大の相談相手だった旦那がいなくなった中で、誰に相談しながら政策運営を進めていくかということです。基本的に彼女は優秀な人物ではあるので(優秀な人物と優秀な政治家とは必ずしも一致しませんが)、背中を最後に押す人物が欲しいのでしょうが、それが来年度の選挙を計算した政治的思惑に引きずられて労働者層(具体的にはリーダー格であるCGTのモジャーノ書記長)への偏重を続けることになるのかどうかでしょう。また、産業界とも折り合うような穏健路線を目指した場合、彼女の右腕になるのが誰なのか。現在のスモール・サークルの中のデビード公共事業省なのか(最近不仲説が出ていますが)、それとも少し範囲を広げて探しだすのかがポイントになるでしょう。

◆いずれの場合においても、アルゼンチンに問われているのは、これから大統領選挙までの1年間という非常に短い間に、次の10年間を構想することの出来る政治家が輩出され、更に国民の支持を得ることができるのかということです。既存の集票マシーンを頼りに労働者層を意識した政治権力を獲得するポピュリズム的なスタイルというのは、途中若干の中断はありましたが、1940年代のペロン元大統領から生き続けるアルゼンチンのDNAだと思っています。これが簡単に払拭されるとも考えづらい一方で、今後10年間そのDNAに依存することがアルゼンチンの発展のためになるとも考えづらい。その辺りをアルゼンチン国民がどのように考えるかということだと思います。