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ピノチェト死去

◆折角の週末で、外は快晴。昨晩は妻に「明日はドライブに行こう」とはしゃいでいたものの、その夜にあった結婚式に夫婦して出席。早めに失礼したつもりでも、帰宅は既に午前2時。それから、目覚まし時計をかけずに眠り続けると、起床は午後の1時。何に疲れていたのかはしりませんが、昼食にベランダで冷麦をすすって、更に昼寝。力の抜けた日曜日になってしまいました。

◆ところがテレビを見ると、チリが熱い。ピノチェト氏の死去。今年に入って、カストロ氏が倒れて、ピノチェト氏も先週には危篤が報じられ、なんとなく中南米の一時代が去ろうとしています。ただ、とてもではありませんが「静かに」去るとはいえないようです。CNNをはじめとした映像を見る限り、支持者だけではなく、長年ピノチェトに反抗してきた勢力は祝うためにサンティアゴ市内で集まっている様子。(ちなみに現地からのレポートはここが一番のおススメ)

◆この緊張感、南米大陸以外からは、何とも分かりにくくなってしまいます。その中で、時事通信が報道しているので、以下を転用します。

ピノチェト元大統領が死去=軍政16年半、人権弾圧を主導-チリ
 【サンパウロ10日時事】南米チリで16年半にわたり軍政を率い、晩年は在任中の左翼活動家に対する人権弾圧事件などへの刑事責任を問われたアウグスト・ピノチェト元大統領が10日、心不全のため首都サンティアゴの陸軍病院で死去した。91歳だった。3日に心臓発作を起こして入院、バイパス手術を受けていた。
 葬儀は国葬ではなく、軍葬の形で12日に行われる。
 ピノチェト氏は殺人などの罪で起訴されたが、死去により、「国家元首の犯罪」が十分解明されないまま、裁判は幕引きとなる。 
 73年9月のクーデターでアジェンデ社会主義政権を打倒して以来、任期延長の是非を問う国民投票に敗れて90年3月に民政移管されるまで、チリの軍事独裁政権を指揮した。
 ただ、アジェンデ政権下で壊滅状態に陥った同国経済を、積極的な自由開放経済政策の導入により改善。対外債務を徐々に減らし、「中南米の優等生」と称されるまでに立て直した。
 政権移譲後も陸軍司令官に留任。その発言や行動は絶えず波紋を呼び、政府との間には常に緊張が存在した。政権の座から降りて16年が経過した今も、チリの政界はピノチェト派対反ピノチェト派という対立の構図が続いている。
 15年11月25日、首都サンティアゴ郊外のバルパライソ生まれ。陸軍士官学校、陸軍大学を卒業後、陸軍第6師団長などを経て69年に陸軍参謀長。73年8月、陸軍総司令官、翌9月には軍事評議会議長。74年12月、大統領に就任した。学究肌としても知られ、「地政学」「チリの地理学」などの著書もある。


◆ピノチェト氏に限らず、60~70年代、南米において軍事力を通じて「米国の代理人」を果たした人々にとって、昨今の南米の「左傾化」は間違いなく受難の時代です。南米の左傾化の一番の「功績」(?)は、実は貧困対策ではなくて、「人権」を表に出した上での過去の精算なのではないかと思われます。その「成果」について、ウルグアイでは、軍政へと導いた元大統領が先月逮捕されましたし、アルゼンチンでも似たようなことが起きていると聞いています。そして、今回はチリですが、彼の国ではピノチェト氏の死でもってしか次の一歩を踏み出すことができなかったのかもしれません。

◆既に米国にとっては、70~80年代の南米における影響力行使の問題は過去の話であり、コンドル作戦などは歴史文書程度にしか思っていないのかもしれません。イラクで忙しすぎる現在、改めてこの地で何か語ることはないのでしょう(何か語ることがあれば、それはそれで面白いのですが)。また、現在の米国の南米における影響力の行使と比較すると、共産主義という「化物」の威力はすごかったということなのでしょう。

◆それにしても、チリのバチェレ政権にとって、このピノチェト氏死後の対応の一つ一つが今後の政権運営に微妙な影響を与えることでしょうから、難しい課題を突きつけられています。例えば、先の時事通信の記事でも、ピノチェト氏を「国葬」ではなく、「軍葬」で対応しようとしているところがバチェレ大統領の苦労の跡を窺わせます。ちなみに、バチェレ大統領、父親を軍政下で殺され、自らも拷問の経験を有している経験を有しています。国家元首としてどのような判断をするのか、心中複雑なものがあるでしょう。